少し前、キースへリング展へ行ってきた。
長野県に彼のおしゃれな美術館があったのは知っていた。たしかホテルも併設されていた記憶がある。ポップなイラストと、現代美術特有のぱきっとした色使いが、外観からも印象的な美術館であった。行ったことはないが。
そのくらいの知識で行ったので、キースへリングがどのような人物なのかまったく知らずに展覧会を見ることができた。
キースへリングはニューヨークの美術家だ。
HIVに感染し、31歳で亡くなったそうだ。
31歳!?その若さで世界中の人が名前を知るような美術家になったの!?という驚きがまずあった。
へリングは同性愛者であったようだ。HIVは男性の同性愛者の中でどうしても感染が広がりやすい。
近しい人が次々に感染し、死んでいくのを目の当たりにして、自分の死期をはっきりと悟った上での美術活動だったようだ。
作品には、死というモンスターから必死で逃げているへリング自身の姿を表した作品があった。
明日死ぬ「かもしれない」とか「いつか」死ぬとか、そのような抽象的な死ではなく、「何年か後に確実に死ぬ」という、とても具体的な死に追いかけられた人間は、どのような感情になるのだろうか。
たとえば、余命を宣告された患者とか、死刑宣告を受けて留置所にいる死刑囚なども、同じような具体的な死に追われているのだろう。
私自身は常に、抽象的な死に追われている感覚はある。東日本大震災や北陸地震など、災害があまりにも多い日本に生きているからこそ、いつ死ぬかわからないという気持ちは、常にもっている。でも、それはあくまで抽象的な恐怖なのだ。。
ところで、上述の死のモンスター以外には、大きく分けると2つの作品があった。
1つは、生の美しさを称える作品
もう1つは、自分の死を受け入れるための作品だ(と思う)。
前者の生の美しさを称える作品の代表は、はいはいする赤ん坊のモチーフだ。
このモチーフは、多くの彼の作品に登場した。何にも染まらずに本能のままに進んでいく赤ん坊は、彼にとって実に神聖な存在であったのだろう。
彼自身は同性愛者であり、自身の子供を作ることはできなかったのだろうが、子供の教育のための絵画も数多く描いていた。
性、その果てに赤ん坊が生まれるということが、彼にとってはとても美しい出来事に感じられたのだと思う。
そして同時に、確実な死に追われている自身と比較し、確実に広がる生を有している赤ん坊が、うらやましかったのだと思う。
後者の作品は、そこまで多いわけではない。しかし、同性愛者が抹殺されていく様子が描かれるとともに、それが神聖なものに昇華する過程が描かれていた(と思う)。
当時の彼からすれば、なぜか同性愛者だけが神から嫌われて死んでいく。人の理に反したからなのか、でも自分の感情は本当に、そのような否定されるべき抹殺されるべきものなのか。もっと純粋な、神聖な感情ではないのか。
そのような葛藤を経て、自分が間違ってはいなかったということを死んだ後に残そうとしたのだと感じた。
へリングの作品は、色彩が鮮やかで、ポップで、とても明るい印象がある。
しかしそれは、具体的な死に追われていたからこそ、逆に生の美しさを表そうとしたからこその、明るさだったのだと、ようやく理解できた。
ところで、上記のような作品以外にも、へリングの作品は、反戦や政府批判などの意図を真正面からぶつけてくる作品が多かった。
絵が持つ力を最大限に利用している作品が多かった。
私は実は、このような作品が好きだ。あらゆる芸術は、「伝わってなんぼ」と、正直思うことがある。
わかりやすく作ることが全てではないし、それで作品のクオリティを下げてしまうのは勿体ないとは思うが、(本当にわかろうとする人にしか)伝わらないひねくれた作品というのは、あまり好みではない。
芸術とは、作り手のその時点の理想を反映したものであってほしいといつも思う。その理想を伝えるものが芸術であってほしい。
伝えるもののない技術的な作品は、正直芸術としての価値はないと私は思う(実験としての価値はあるのだろうが)。
美しく、わかりやすく、強い理想を表した作品が好きだ。
そのような意味で、へリングの作品は、好みの物が多かった。