間違いなく素晴らしい映画でした。
そして、この映画が世界的に評価されているということに、安心するような、そんな映画でした。
***以下はネタバレ満載です***
主人公の平山が、日々をどのように生きているかを追った作品。
仕事の日は、外から聞こえるほうき掃除の音で目覚める。神社の前を掃除している音。
目が覚めたら、すぐに起き上がり、布団を畳む。
下の階に降りて、キッチン兼洗面で歯を磨き、髭を整え、顔を洗う。
霧吹きを持って2階ヘ上がり、育てている植物に水をかける。
そのまま2階で作業着に着替え、玄関に向かい、玄関前に揃えてあるいつもの持ち物をあるべきところに入れて、家を出る。
自宅前の自販機でいつもの缶コーヒーを買い、車のエンジンをかける。
スカイツリーが見えたら、今日の気分に合わせたカセットをかけて仕事現場へ向かう。
何か所かの現場でトイレ清掃を終えたら、お昼ご飯だ。
いつもの神社でいつものサンドイッチとパック牛乳を。
神社上空の木漏れ日を、レンズを見ずにインスタントカメラで撮る。
午後の仕事を終えたら、帰宅し銭湯へ向かう。
その後浅草駅のいつもの飲み屋へ行き、夕飯を終え、帰宅。
寝落ちするまで布団で読書をし、寝る。
夢の中で、その日の出来事を整理する。
休日は、少し遅めに起きる。布団を畳んだらまず掃除だ。
その後コインランドリーへ行き、カメラの現像を取りに行く。
次の1週間で読む本を、古本屋へ買いに行く。
夜は毎週通うスナックで静かに飲んで、帰宅。
映画は、このルーティンを繰り返す平山の暮らしを追い続ける。まるでドキュメンタリーだ。
もちろん、平山も社会の中で生きているのだから、人々との交流もある。
そこで、喜んだり悲しんだり怒ったり、ドキドキしたり、ほくそ笑んだり、後悔したり、羨んだり、いろいろな感情を抱く。
しかし、平山にとってそれは、「その日」の出来事なのだ。
夢の中でその日を整理し、次の日は新しい1日を始める。
映画の最後に「木漏れ日」についての説明が出てきた。
ドイツ人である監督が、日本語のKOMOREBIに感銘を受けたのがよくわかる。
その日の木漏れ日は、その日だけのものだ。
風、天気、空気、その日だけの条件下で、その日だけの木漏れ日が生まれる。
それを理解しているからこそ、平山は木漏れ日の写真を撮る。
平山の生き方の根底には、人には人の世界がある、という発想があると感じた。
人はみな、その人独自の世界で生きている。
世界と世界が触れ合うから、楽しいし悲しいし怒る。触れ合うことで、世界の形が変わることもある。
大事なことは、その人の世界を尊重するべきだということだ。というよりも、世界が異なるということを常に意識して社会で過ごすべきだということだ。
平山は、ルーティンによって自分の世界を変えないように努力している。平山は、少なくともあの映画の時点にといては、彼にとっての理想の世界を見つけたのだろう。
そこに美しさを感じるのは当然だし、うらやましくもある。
だが、世界の人々がみな平山のように生きていけるわけもなく、また、個人的には常に自分の世界をアップデートすることが、生きていく醍醐味だとも思う。
ルーティンによって世界を維持することは重要だが、それは毎日の掃除、くらいに考えたほうが良いと思う。たまには模様替えも必要だ。
そういう意味では、毎日の掃除として、私の生活にももう少しルーティンを取り入れたい。
また、毎日を新しい1日として生きていることにも、平山の特徴がある。
世界とのぶつかり合いを、木漏れ日のようにその日限りのものとして夢で処理し、新しい1日をむかえる。
1日1日を、新しい日として迎えるのだ。
正直、この世の中は訳が分からない。特に意味もなく産み落とされ、生まれてしまった以上死ぬまで生きていかねばならない。
その間の時間を、どう気持ちよく生きるか、ということに、人生は尽きるのだ。
「今」をしっかり生きる。「今度」は考えない。
「今」の連続として時間があることを、平山は理解しているから、「今」を丁寧に気持ちよく生きることに注力している。
私は、この点に関しては、完全に同意する。
「今は今、今度は今度」。ちゃんと生きるための教訓だ。
とにもかくにも、本当に映画だった。芸術作品としての映画。
そして、この映画を世界が評価していることに、安心した。